昭和52年12月24日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 昨日大変御比礼の輝いておる或る教会の、どう言う所にああいう凄まじいまでの御比礼が輝くのだろうと、思うて御祈念させて頂いておりましたら、神様を拝むにこう合掌して、身体を動かしながらもう手はこう、御本部へ参りますとあの須田先生の御信心、御祈念が何かあんな感じですね、もうそれこそ一生懸命の余りに身体までこう動いてから、その手が震えてきてね、そういう信心にやはり神様も一緒に動じなさる。
 神様が動きなさる。だからそういう意味での神様やら仏様は、沢山おられましたよね、過去において。例えば行者風の、まあ行者風というか行者ですね、いろいろな行をしなさる。先日からの善隣会の教祖が亡くなられて、それで教祖伝が、立派な御本がでけとります。それを文男先生が、随分高い本だったそうですが、あれを求めてここへ持ってきてくれて、それに善隣会のいわゆる会長、いわゆる教祖様とこう言っておる、その教祖様のお父さんという方が、そのもう大変な修行。
 いわゆる表行ができた方だったらしいですね。いわゆるそのお滝の水を頂きながら、こういろいろなさるわけですね。それでやはりその神様が動きなさるね。けどもそういう神様ならば、いうならばどこにもあったと言う事ですね。それこそ鰯の頭も信心からね。どこぞの何々のお不動様と言う様な、その信心修行と言った様なものはあった。ところが教祖の、神様の御信心に現れなさったという神様は、煎じ詰めれば同じかもしれませんけれども、その一心不乱に自分の身体を動かしながらという。
 ありゃ動かしながら動いて来るんですよね、私どもそういう体験があります。過去の私の信心にもやっぱそういう時代がありましたね。いうならば一心に、ま拝み出すというのです。四神様の御教えに「一心に信心をしろと言うたら、直ぐに氏子は拝み出しますわい」という言葉があります。一心に信心せろと言うと直ぐに拝み出す。勿論拝まんことないですけれども、そのいうなら「どうぞ、どうぞ」と言うて願うわけですね、だからそういう神様ならば過去においても、やはり沢山あったと言う事。
 教祖の神様は、どこまでもね、和賀心におかげはあるんだと言う事を通された。いうならば表行じゃなくて心行によってね、自分の心の状態如何によっておかげが頂けれるという、または賀びの境地、信心、安心の境地が開かれると言う事になられたね。一心不乱に拝むと言う事からおかげを受けるのではなくて、ここでそのことをはっきりお示しになっておられるのが、「天地日月の心になること肝要だ」という風に教えておられます。信心は一心不乱に拝めというのじゃない。
 四神様のまたの御教えにね、「おかげは神から出ると思うな、氏子の心からだ」と教えられた。もうこのへんの見解というものは、もう金光教の信心の、いうならそのものズバリに教えておられるわけですね。おかげがはあ一生懸命拝んだ、も身体を打ち振って拝む、いうならそのいろんなものに動じが付く御動じというね、昔ありましたよね、合楽でも、久留米の光橋先生が久留米に出たあの頃は、非常に激しかったですね。拝みよるともうお花にお動じが付くね。
 とう言う事はどう言う事かと言うと、やはりね花そのものが神だ。成程神様がその動じた、いうならば踊り出しなさる。踊る宗教なんかでも、そんなやっぱ理があるんじゃないでしょうかね。だからおかげを頂くと言う事においては、なら踊りながらいうならば無我の境地になることを一生懸命太鼓を叩いたり、鐘を鳴らしたりして、まあ神様と通ずる手立てというものを作ってゆく。そこから交流するおかげね。
 けれども金光様の御信心はどこまでも、いうならば天地日月の心になることが肝要である。即和賀心であるね。だからこのへんのところをはっきりして、そして信心を致しませんと、いうなら神様を拝み出したりね、神様を行じいうならばで表したりね。そこにはです、私は思うのに、人間自体の助かりというものが非常に希薄だと思うですね。人間の助かりというのは、心が楽になること、心が喜びに満ちてくることね。暑さもいうならば寒さもね、感じないほどしに心の中が歓喜で一杯になってくる。
 喜びで一杯になってくる。心がいつも安らいでおるね。心がいつも平穏であるね、そういう修行を、教祖様はギリギリのところを求められたんですね。そこからいわゆる表行より心行をせよ、合楽ではもう表行全廃心行一つ。どこへ焦点を置くかというと、天地日月の心ね。いつも頂きますように、なら神様の心を心とすると言った様な事を言うがね、ならここで皆さんが親先生任せと言う事、親先生の言いなさる通りにすると言う事じゃなくて、親先生の心を心とすると言う事なんです。
 だから親先生の心が分からなければ、親先生の心を心とすることはできません。神様の心、いうなら天地日月の心、なること肝要と言われても、天地日月の心がどげなもんやら分からなくては、天地日月の心になることも及びもつかないことになってくるね。そこで合楽ではね、どういう風に解明しておるかと言うと、天の心というのは、与えて与えて止まない、もう美しい最高に美しい心だ。
 与えても条件がない無条件であるね、そこんところを信心をせんでもおかげはやってあると、お教えられてあることころじゃないでしょうか。まぁあれ達は天地の大恩も知らん、天地の神様と言って拝みもせん、だからあれ達にはもうおかげはやるまいというのじゃなくて、もう無条件である。もう教祖様の大発見ですよね。信心はせんでもおかげはやってある。神様のかの字も言わんでも、やはりおかげはやってあるね、いうならば与えて与えて止まない心。
 あの人は好きだから、あの人は嫌いだから、と言っていわゆる別け隔てするような心も、だんだんなくなってくるでしょうね。天の心を心とすることになります。そこでその見方をね、「天が下に他人というはなきものぞ」とかね「世界総氏子」とかという、神の子としての見解が教祖にあるわけですね、どんなに嫌だ嫌いだと言うても、やはりいうならば同胞(どうほう)であり同胞(はらから)であると言うのです。同じ天地の親神様のお腹から出てきた兄弟だと言うのですね。
 そういう見方が、いうならば天の心なんです。しかもこれだけしてやってから、してやったのに、こう恩も知らないと言った様な事ではなくて、もう限りなくしかも無条件に、しかも与えて止まない心、それをここでは、ま天の心という風に申します。だからそこまで、例えば天の心が合楽で解明されたんですから、天地日月のまず天の心になること肝要だと言う事になると、自分の心から汚い心を取り除かなければならんことに気が付きますね、改まると言う事は、そういう心なんですね。
 そこで様々な精進をいたしますね。心の中に汚い心が動くだからその心をね、いうならばとっ捕まえといて、そしてそれをなくしていこうとする精進。人間だからこんぐらいのよか、もうあたりまえ、と言う事ではない。今日私は『或る方が、片一方の手に或るものをこう握っておる、右の手でそして左の手で何かを一生懸命探っておる感じのところ』を頂いた。いうなら汚い心、いうなら我情であり我欲であるを、片一方にしっかり握っておって、片一方でこう探ると言う事は、探究すると言う事だと思うたね。
 いうなら信心を、いよいよ奥我へ奥我へと進もうとする信心意欲というものがですね、探究してゆくこと。私はその人のことをいつも思うんですけども、惜しいなあこの人ばっかりゃあ、片一方にはこういう誰んでも真似のでけんものを持っていながら、片一方にはそういうものを、いわば握って離しきらないものがあるね、そのためにいわば家庭の中にも、ゴタゴタが起こるようなことにもなる。ほんとにそれを、もうその人の家のめぐりというたら、もうやっぱしめぐりと言うよりほか仕方ないでしょう。
 そこのやはり大体そんなものを感ずるんです。でそれを片一方じゃしっかり握っとる。そして人間じゃから、こげなことは当たり前ち思うちゃおるまいけど握っとる。それで結局は、片一方の手で探究することになるね、探究しても片一方の手で、ですから本当の探究はできない。これを外しておいて両方の手で探究する。私は我情はない我欲はないという人が探究する心がなかったらこれもつまらん話。信心は進まん。どんな仏様のような人、神様のような人じゃと言うてもですね。
 自分は我情もない我欲もないとこう言うとってもです、それを追求する心探究する、いうならば信心を進めていくという精神がなかったら信心は進まない。探究していかなきゃならんね、所が私共がんならその人だけのことじゃありません、お互いの心の中に汚い心があってそれを外しきらんでおる。私はこれはその若い青年時代の話をよくします時にね、私はちっとどこかちょっと馬鹿んごとある所がありますから、非常にやり好きであったり、そしてやった後に惜しかと思ったりと言った様な心があった。
 いや今でもあるかもしれません。人にこう見せびらかすごと、ネクタイを沢山いろいろ、やっぱあのなら私は昔から一つの収集癖のようのもんがあるですよね。例えばここでなら、あの壺類なら壺類を沢山、やっぱこう集まって来るというのは、私のそういう収集癖を神様がご承知だから、私の心を満たして下さるのでしょうかね。もうネクタイなんか、もうその気に入ったら買って、そればパーット人にしてから「良かろが」ちて人に見せる。見せると「おおこれ良かな」ち。
 その人の気に入るとがあると、ならそれをやろうって言うて、帰りがけにやろうと言うてやるわけです。そしてから心の中では「はあ惜しかった」と(笑)そういう時にね「そりゃあ俺が一番好きなっちからやらん」と言うたらいけませんから、その自分の汚い心を、その時分から考えてみると、もう取り除こうとする一つの精進であったという風に思うですね。惜しいけれども彼は是がいいなあとこう言う、そんならそれをやろう。
 後から惜しいけん惜し気がつくごとあるけれども、やっぱそういう、いうなら稽古をだんだんしていくうちにですね。いうならば我情もなからなけりゃ、我欲もないと言う様な境地を目指して、まそういう精進が、だから要ると言う事です。自分の心の中に動く汚い心。私はやり好きの人がですね、もう自分がもう着物なら着物でも、あえて着るごとなかとを、人にさっさとやる人がありますね。あれはやり好きですから大して親切、まあそれだけでも外すと言う事ですからね。
 そりゃもう売れば幾らがつでも金になるとでも、やっぱ人にやると言う様な人達がありますよ、こりゃ着物だけじゃありません、いろいろありますね。だからもうほんと言うたら、自分がいいなと思うものばやる心が美しい心じゃないでしょうかね。「自分がもう好かんごとなったっけ、あんたにあげよう」では、その非常にいうならば同じあげるでも値打ちがない。美しさの上においては、天地ほどの違いになってくるね、天の心にまず限りなく美しくしゅうなる精進をさしてもらわなければなりませんね。
 そして思うのに、ほんと言うたらやらんが一番良かわけですね、そんならこうがめる心で放さんのじゃなくてですね、私最近はもうそういことをぜんぜんいたしません、人に物をあげたりやったりです。かえって不浄が付く。ほんとに神様の御物として、それを大事に頂いておくと言う事だけ。そしてもう貰うことばっかりに決めておる、(笑)ね。だからその天の心一つでも、本気で私は取り組ませて頂くと言う事が要るんですね。一番私どもに修行になるのは何と言うても、地の心。
 もう合楽では、この地の心を知って地の心になる修行をしなかったら、もう合楽におかげを頂いておる値打ちがないとすら思うくらい。昨日の月並祭の御理解の中でも申しましたようにね、沢山人が助かる日本一的な教会を集めて、そしてその教会の特徴、その教会にどうして人が助かるかと言う事を、研修しておる先生方がそれを一つの図解入りで説明しておる。こういう風な画が書いてあるです。丸うく円を書いてね、そしてまあ御比礼の各教会をずっと書いてあるね。
 それに例えば合楽の、細やかに書いてあるのがここにある。そしてここに合楽と言う所には、「神と人と御理解の素晴らしさ」ね、ここでの御理解は神様から頂く御理解、それを人、所謂大坪総一郎が行じて表した体験、その神様から出たヒントと自分が頂いておる体験とを、いわば織りまぜながら伝えておると言う事が合楽の御理解の素晴らしさ、それが合楽の御比礼の元だという風に説いてるわけですねこれ。御祈念力とか、有難いの権化のような先生がおられるから、という風にいろいろあるんです。
 ですから合楽では私もそう思うです、御理解は合楽の命だと思うです。ですからその合楽の、その命と言われるほどしに大切なものを、自分のものにしていこう、身に付けていこう、自分の血肉になることの精進をしていこうと言う事が、私は合楽の、他所の先生あたりのように、もう「この馬鹿野郎」と言って怒って、その後にはもうスキーッとしたおかげを、その間違っとたら怒ってからでも分からせて、そしておかげを渡されると言う様な力が私にはないからね。
 ここではいうなら御理解をその代わり、惜しげ悪しげなく朝から晩まで、いうならば皆さんに伝える。そこで皆さんの心が開かれる。そこからおかげが現れる。開かれるというのは、あなたの心が救われる。心が助かるね、悶々としておったものが御理解を頂いて、スッキリ有難い心に切り替えられる。そういう繰り返しをしていくうちに、我情もなくなる、我欲もなくなる、我が身は神徳の中に生かされてあるんだなという喜び、その喜びを以ておかげをキャッチしていこうというのが合楽。
 だから合楽の場合、ちった骨が折れる。けれどもそれがこの世に出てきた私どもの、いうならば一番の願いにならなければ、真の信心とは言えん。信心とは本心の玉を磨くものであり、日々の改まりが第一であるね、そこんところを御理解を以て、こう改めよ、こう磨いて行けよという、磨く手掛かり、改まるところのヒントを与えさして頂くのであるね、だからならいうならおかげによって助かるのじゃなくて、自分の心が助かっておかげを受けるというのが合楽。それがもう合楽の信条なんだ。生命なんだ。
 だからどうでも合楽の方達はね、御理解力というかね、御理解をよく玩味することと同時に、それを行の上に表していこうとする精進が、もう四六時中なされなければ合楽通いの値打ちがないね、それこそ断食したり、滝の水を頂いたりして、例えばお取次ぎをしておられるとか、そういう信心おかげだけなら、だからそういう信心の方が手っとり早い。合楽じゃだから非常にその辺のところが暇にいる。けれども自分の心が天の心に地の心にね、そして最後の仕上げは、いうならば日月の心というようなです。
 自分というものはキチッとしたところに置いてね、いうならば人間の、まあ完成を目指してとでも言いましょうかね、もうそのままあの世に持って行けれるものをいよいよ大事にしながら、おかげを頂いていくというのが合楽の信心ね、とりわけ地の心というのを合楽では黙って治める、成行きを尊ぶ全ての事に御の字を付けて頂けよと言う様な表現になってくるわけです。そしてその黙って治めると言う事の大地の心になる、豊か心になると言う事が、この様にも有難いんだと言う事。
 不平がなくなる不足がなくなる、腹立たしいと言った様な事がなくなるんです、地の心というのは。そのように自分の心が豊かに肥えてくるわけです。ですからそこに喜びの種を蒔く、喜びの芽をいける喜びの花が咲く、同時に実りも頂くことができる、それがお徳なんです。それがあの世にも持っていけるんだね、ですから教祖様が頂かれた信心の一番有難い神髄と思われるところに、沿うてゆく行き方にならなければ、私は金光様の御信心ぶりというものは生まれてこないと思う。
 ただお取次ぎをして頂いて、一生懸命拝んでもろたら助かったと言った様なものではなくて、それこそ日にち時間を切ってからね、病気が直ったと言った様なおかげでは、もうそれこそ、あっという間にまた消える感じがする。もう一歩一歩自分の心の中に天地の心を刻みつけてゆく、天地日月の心になることいよいよ肝要だとしての信心を頂かなければ。もう合楽はね、もう合楽の一人一人に神様はそれを求めておられるのだ、合楽の御信者さんにはね、だからなら御神徳を受けることができる。
 その御神徳が私をいつも有難いというね、いつも平穏ないうなら安心の心へ導いてくれる。ね、それがいうならば身体全体から滲み出てくるような雰囲気が生まれてくる、その周辺に光が、いうなら灯ったように有難いことになってくるね。教祖の神様の、いうならば御信心を神ならう。教祖の神様の頂いておられた御信心に、いうなら一歩ずつ近づいていくね、おかげを受けて近づいていくと言う事じゃない、信心を頂いて近づいていくのである。私はこのこの本を作ったり、このこういう研究資料を。
 ここに送ってもうろうて、こう見せて頂くそして思うことはです、ほんとにあの素晴らしい、いわば合楽をここに浮き彫りにして、これを教団全体に広めて行こうという働きが起こっておると言う事を、大変有難いことだと思うです。どうでも合楽の信心が中央に、ね、こう押し出されていって、そして合楽の信心に神ならうという信奉者が沢山でけて、教団の一新がなされるなら、もう〈ほんと〉に有難い。神様の大きな願いというのは、そう言う所にあるだろうという風に思うですね。
 というてなら拝むことを疎かにしてよいと言う事は、決してありませんね。この頃はどうも御信者さんが段々増えていくにしたがって、願う時間がね、今まででは足りなくなった。もう目が覚めてから、廊下をずうっと歩いて来る来るもうお願いせにゃあ。それでもやはり五分十分は、この頃長くなりますですね。そしてまあいうならみっちり一時間なら一時間、やっぱり私も拝んでます。だから拝むことを疎かにしたり、とてもほんと言うたら五分十分で、ぽんと御祈念が終わったてんなんてんちゅうこたでけん。
 ところが合楽の人達は、御理解は熱心に頂くけれども、拝むことはあの熱心に拝まない。そういう傾向がありますね。そこで最近は大祓信行と、言った様な行が起こって、そして大祓信行させて頂いておると、だんだん心が神様へ向こうてきてね、神様も生き生きとしてきなさるが、こちらの心まで生き生きとして、なら御信心を離れたくないような、いうならばしっとりとした、御祈念もできるように、だんだんなってきたわけですね。大事なんですやはりね。
 けれども一番大事なのは、なんと言うても天地日月の心になることが肝要なんです。ね、だからいよいよそれを身につけていくという修行をいたしますことは、とりもなおさず教祖の御信心に帰依したことになるのですね、そういう信心を、スッキリとした一つのスタイルを作ってね、それを全教に広めていく時に、金光教の独自性というものがはっきり打ち出される。どこの宗教、どこの何派でも、いわば到底及びのつかない。ただ一生懸命御祈念をして、御祈念をするとかね。
 と言った様ないろんな、いうなら表行ね、水をかぶったり断食をしたりしてから、御比礼がたっておるのであったら、もう金光教に限ったことではない。鰯の頭も信心からと言う様な事にまでなるのですね、成程金光教は素晴らしいと言う事は、いわゆる金光教教祖がおっしゃておられる、その独自ないわば信心の進め方、我情を外し我欲を外し、そしてね信行一本に。そして神の心を心とする、天地日月の心を心としての信心の進め方、えらーい窮屈なごと難しかごとあるけども。
 それをひとたびなら自分の心ん中に頂き出したら、こげな有難い信心はないことになり、それがそのままあの世にも続いて持って行けれるというのですからね、信心のいわゆる教祖の信心の神髄は、そこにあると言う事が言わなければなりません。信心はせんでもおかげはやってある。これは天の心を解明すると「ははあ、成程」と言う事が分かりますね。金光教で拝む所の、天地金乃神様という天の心というのはね。
 地の心というのは、今も申しましたように、私どもがそれに本気で取り組ませていただかなければ人間もでけてこないね、自分の心も豊かにならないね、辛抱力もでけない。辛抱力がでけてね、いうなら辛抱、信心辛抱の徳が受けられるというのも大地の信心なんです、地の信心ですね。その信心のいうならば一つの見本のようなものをです、合楽はどうでも作らなきゃいけん。「金光教の信心は、もうこれだ」と言った様なものをね、合楽では一ついよいよ表して行きたいと思います。
   どうぞ。